「共感」というものについて。
昨日のエントリーで、書き溜めたアイデアや言葉や気付きを蓄積させることのメリットを書いた。公開した後で、そういえばこんなこともあったな、という気付きがあったので、続編として書いてみようと思う。
時おり、書き留めたネタをSNSでつぶやいてみることがある。内容としてはかなりライトな、日常的な心の揺らぎのようなことが大半なのだが、その投稿に対して「まさにそのとおり」「確かにそうだ」といった内容のコメントをたくさんいただいたりする。そのようなコメントをいただけることはとても嬉しく、楽しいものなのだが、さらにその様子を見ながら、僕のなかで新しい仮説のようなものが生まれた。
「共感って、こういうことなんじゃないかな」と。
辞書を紐解くと、共感とは「他人の考え・行動に全くそのとおりだと感ずること」「他人の体験する感情を自分のもののように感じとること」とある。なるほど、なんとなく頭では理解できているような気がしていたが、同時に、なぜ「他人の考えにそのとおりだと感ずる」ことに至ったのか、そのプロセスについて知りたいとも思っていた。
今回の体験から僕が思い至ったことは、そのプロセスについて。それを含めて僕が定義する「共感」とは「言語化されていない思考に対して、他人から言語化されたものが提供されたときに起こる、気付きや喜びのこと」なのではないかと。
平たく言うと。
◯Aさんの頭の中には、なんとなく、ぼんやりと考えていただけのネタがある。
◯そこへBさんから、まったく同じ内容のネタながら、言葉として整理されたものが提供される。
◯Aさんは「まさにそのとおり」「確かにそうだ」と感心する。
…これが共感のプロセスなのではないかと思う。
「このアーティストの魅力のひとつは歌詞。私が思っていることを代弁してくれている」といったコメントも共感のひとつなのだろう。自分が感じていただけの気持ちを、アーティストが言葉で整理して、歌に乗せて伝えたことから起こる共感。
人の頭のなかには、言葉として整理されていないアイデアや言葉や気付きが、山のように存在するのだろう。そしてそれらは、他人の頭のなかにも、同じように存在している。より多くの事柄を言葉として整理し、共有できる人が、より多くの共感を集めることができる。
思考を言語化するトレーニングは、より多くの共感を集めることに通じているような気がする。