高齢者の交通マナー、あるいは社会的な価値というものについて。
とある平日の昼下がり。僕は、人もまばらな地下鉄のホームで、ぼんやりと電車を待っていた。
ホームドアの目の前、そこには僕以外誰も立ってはいなかった。やがて電車がホームへ滑りこんでくる。やれやれ、やっと来たか、なんてブツブツ言いながら電車に乗る態勢を整える。
その時だ。
どこからともなく現れた白髪の老紳士が、僕とホームドアの間にスライドイン。ほどなく開いたドアから、いち早く電車に乗り込んだのだった。
驚いた、そして唖然とした。その身なりのキチンとした老紳士は、白昼堂々、割り込み乗車をやってのけたのだ。何事もなかったかのように座る老紳士を見ながら、僕が次に抱いた感情は、怒りではなく哀しみだった。「残念だなぁ」と。
彼にはきっと悪意などこれっぽっちもなく、ただ単に電車が来たから、ドアに近づいて乗った、それだけなのだろう。無邪気とは実に恐ろしいものだとも思う。
これは僕の個人的な意見だが、曲がりなりにも年長者であるのならば、若い人間に対してマナーや規範を、率先して示すべきではないだろうか。その永い人生経験に基づいた知識や知恵を、若い人間に対して提供するべきではないだろうか。そして高齢者によるマナーや規範、知識や知恵の提供は、社会に労働力を提供することと同等の価値を有するとも思う。
ある程度の年齢になると、いわゆる現役世代に比べて、社会に提供できる労働力が低下するのは仕方のないことだ。時代は変わるし、社会システムやテクノロジーの変化も著しい。その変化に対応した、時代に則した質の高い労働力を高齢者に求めるのは酷というものだろう。
しかし高齢者には、現役世代が持ち合わせていない、永年の人生経験に基づく知識や知恵があるだろう。どんなに時代が変わっても、人間の根っこの部分、本質的な部分は簡単に変わりはしない。彼らの経験には、人間の本質的な部分に光を灯すような、現役世代が学ぶべき、とてつもない価値があると僕は思っている。
30年後の僕は、社会に対してきちんと価値を提供しつづけていられるのだろうか。