撮ったら、すぐ逃げろ。
かのアンリ・カルティエ・ブレッソンは、若かりし頃、某共産国の撮影禁止の軍事施設をうっかり撮影してしまったために、直後に警察官に追いかけられたという逸話をインタビューで残している。
そのときの体験から「写真家は、撮ったらすぐ逃げろ」という、まるで冗談のような教訓が生まれた。
僕はこの話を、まさに他人事として微笑ましく受け止めていたのだが後日、この教訓の重みを、身をもって痛感することになったのだ。
ある冬の寒い夜、以前から目をつけていた撮影スポットへカメラを担いで向かった。
東京都内の、なんの変哲もない道端なのだが、そのビルの壁面に埋め込まれたタイルは、なめらかな陶器や貝殻のように光を反射するため、車のヘッドライトが当たると実に印象的な風景を作り出していた。その光景をカメラに収めたかったのだ。
三脚に、カメラをセットする。アングルを決め、車のヘッドライトを待つ。人が歩いているなら、その影も印象的に写るだろう。タイミングを計りつつ、数十枚撮影したころだろうか、背後から「ちょっとすいません」と声をかけられた。
振り返ると、警察官のおじさんが立っていた。
「近所の人から通報がありましてね…」
なるほど、無理もない。冬の寒い夜、なんの変哲もない暗がりの道端を、夢中で撮影している身長180cmのオトコを不審者と捉える人もいるだろう。女性であればなおさらだ。
警察官のおじさんを説得するため、アマチュア写真家であること、この壁に反射する光が美しいと思ったことなどを話し、撮影した写真を総ざらい見てもらった。(人は追いつめられると饒舌になる)
僕の、人生を掛けたプレゼンが功を奏したのかほどなくして警察官のおじさんは去って行った。しかし残された僕から、もはや写真を撮り続けるモチベーションはすっかり消え失せていた。
ああ、こういうことなんですね、ブレッソン先生。
軍事施設を撮っていたわけでなくても、写真家は、他人に疑いを持たれた時点で、やっかいなことに巻き込まれる可能性が十分にある。そうなる前に、自分の身を守るために、コトを済ませたらさっさとその場から姿を消すべきなのだ。そうすることが、すべての人の幸せにつながる。そんな気さえ、今はしているわけで。
その事件以来、僕の撮影スピードが格段に上がったことは言うまでもない。
「ここは」と思った場所、1か所につき2~3枚。時間にすると、おそらく1分に満たないくらいだろうか。
そしていつも心には、かの教訓が深く深く、まるでトラウマのように刻まれている。
「撮ったら、すぐ逃げろ」
(冒頭の写真が、まさに事件のあった日に撮影した一枚)