現代アートとヘヴィメタル

その歴史の文脈の中でしか、評価されない。

 

アートのメインストリームである欧米市場ではこのことがすべての大前提にあるという。

新しい作品がアーティストによって生み出されたとして鑑賞者や購買者は、その作品がアートの歴史のなかで、どこに位置づけられるのかを、まずは見極めるのだという。

この時点で、アートの歴史の文脈から外れるものはアートとしてみなされず、評価を受けることはできないのだ。

アートとして認められた後にようやく、その作品に込められた作者の意図や想いなどを汲み、その作品が次にどのような歴史を創っていくのかなどを総合的に評価したうえで、作品の価値(価格なども)が決まる。(乱暴な説明だが、おおむねそのようなことらしい)

 

日本人にとって「難解」「意味不明」と捉えられがちな現代アート作品たちも、すべてアートの歴史の文脈から生まれたものだ。

白いキャンバスに絵具をぼたぼたと垂らしただけの絵画で、挙句の果てにタイトルが“無題”とある一見難解な作品であってもアートの歴史の文脈から紐解くと、過去のアート作品やアーティストへの新解釈や反発、オマージュやパロディなどなどの意図が込められていることがわかる。

 

つまりアートの歴史を知らなければ、その作品を理解することができない、ということだ。

 

現代アートに対して日本人が苦手意識を覚えるのはこのような事実と、アートの歴史の文脈を理解していないからだ、と言われている。(かくいう僕も、理解できているとは言い難い。不勉強。)

 

僕が、現代アートとヘヴィメタル(HM)に共通点を見出したのはつい最近のことだ。

HMは80年代に隆盛を極めた特異な音楽ジャンル。

その後、人気は下降線をたどり、現在もマーケットとしては狭いものであるかもしれないが一部の熱狂的なファンに支えられ音楽ジャンルのひとつとして確立されている。僕もファンのひとり。

 

例えばHMファンが、デビューしたばかりのバンドの音源を聴いた場合、下記のような思考をめぐらせることがよくある。

 

「この曲のリフ、メタリカ初期のあの曲みたいだ」「このギタリストはクラシカルなフレーズが得意。リッチー・ブラックモアやランディ・ローズ、イングヴェイ・マルムスティーンの影響を受けているだろう」「このバンド、モーターヘッドとハノイロックスを掛け合わせたような音だな」

 

また現在では、時代の変遷とともに音楽ジャンルの細分化が進みつつあり「HMのような音を出すが、厳密にはHMでない」といった微妙な立ち位置のバンドなども存在する。

しかしHMファンは一貫して「HMを聴くこと」にこだわる。

そのため、どこまでがHMで、どこからがHMでないか、その線引きを明確にしているのだ。

そこでの基準となるのは(賛否あるとは思うが)、その音がHMの歴史の文脈にあるかどうか、である。

 

つまりHMファンも、現代アートの鑑賞者や購買者と同様にHMの歴史の文脈の中で、音楽を評価しているのである。

そして、HMの歴史の文脈から生まれたものでなければそれをHMとして評価しない、ということになる。

 

これからHMを聴き始めるという奇特な人がいるならば、その歴史を創ってきたレジェンドたちの音から聴いてみることをファンとしてはオススメしたい。

 

僕が個人の活動として標榜する、写真を通じての現代アートと生活の一部として身体に浸み込んでいるHM。

まったく異なるふたつのジャンルを横断する「歴史の文脈」というキーワード。

これからもこのキーワードを意識しながら自身の活動を進めていくことになるだろう。

 

未来は、過去の中にある。その言葉が真ならば、なおさらである。

 

(本稿では表現上、ハードロックについての記述は省略していますが「HM」と表記した部分には「HR / HM」の意図があることをご理解ください)