本当の幸せは、豆電球を換えた時に訪れる。

先日、寝室の照明に付いている豆電球が切れた。

普段寝るときは、できれば豆電球をオンにしたいと思っている僕なので、その晩は、些細で取るに足らない、でもそれなりに多くの不便さに悩まされることになった。

 

「電気を消してからベッドに辿り着くまでが、暗すぎる」

「寝る前にちょっとだけ眺めたいiPhoneの画面が、明るすぎる」

「夜中に〈何か〉あった場合、なにも見えないのは怖すぎる」

などなど。

 

はっきり言って、他人から見ればどうでもいいことばかりなのだが、僕にとっては、いつものリズムが大いに狂わされたことが残念でならない。

「明日は必ず、新しい豆電球を買ってこよう」。

そう心に固く誓ったのだが、大抵の人がそうであるように、朝になるとそんな誓いのことなんてすっかり忘れ、いつもの日常に飲み込まれていった。

 

奇跡的に豆電球のことを思い出したのは、その日の夜、家路を急いでいる時だった。もう昨日みたいな思いをするのはごめんだ、僕は迷うことなくコンビニに駆け込んだ。

 

しかしそこで気づく。

「口金のサイズとか、控えてくるの忘れたな…」

日本のコンビニは優秀なもので、一般的な豆電球くらいは当然のように陳列されているのだ。問題は、我が家の豆電球が一般的なものであるかどうか、その一点のみ。

もしかしたら、この買物が無駄になるかもしれない。いや、それでも構わない。これはもはや、穏やかな日常を取り戻すための戦いなのだ。リスクはあるが、賭けに出よう。チャレンジしなければ、なにも手に入らない…。

僕の実に下らない思考がブツブツと口から漏れていたかどうかはわからないが、とにかく僕はその一般的な豆電球を購入し、そそくさとコンビニを後にした。

 

家に帰る。寝室へなだれ込み、切れた豆電球を外す。今買ってきたばかりの新しい豆電球のパッケージを乱暴にひっぺがし、ソケットへと導く。

 

…ついた。

 

僕の寝室の照明の、豆電球に光が灯った。

哀れな僕に、穏やかな日常が戻ってきた。

 

これによって、電気を消してからベッドに辿り着くまでが暗すぎることもなく、寝る前にちょっとだけ眺めたいiPhoneの画面が明るすぎることもなく、夜中に〈何か〉あった場合に何も見えなくて怖い思いをすることもない、いつものリズムの夜が戻ってきたのだ。

 

僕らの日常は、さまざまなモノやコトによって「普通」が保たれている。

さまざまな要因によって「普通」が失われた時、はじめて「普通」の尊さを、有り難さを思い知らされるのだ。

「普通」の中にこそ、本当の価値があるのではないだろうか。

「普通」の中にこそ、本当の幸せがあるのではないだろうか。

 

豆電球が切れたから、新しく付け替えた。たったそれだけのことなのに、豆電球を付け替えた瞬間の僕の顔には、他人にはあまり見られたくない、充実感に満ちた小さな笑みが浮かんでいた。