Carl Zeiss Planar T* 1.4/50 ZF.2 と、生きていく。
ここ2年ほど、写真に関して、突破できずにいる大きな壁を感じていた。
2013年・2014年と、ファイナリストに選出されながら受賞には至らなかったロンドンのアートコンペ「EWAA」。そして2014年夏の「東川町国際写真フェスティバル」でのパリデビューチャレンジでも同様に、最終候補者に残してもらいながら「パリデビュー」はかなわなかった。
才能不足、努力不足と片付けてしまうのは簡単だが、僕の作品と、受賞した人の作品との間に、一体どれだけの差があったのか。僕の中の何を変えれば、この壁を突破することができるのか。ひとり悶々と考え続けていた(もちろん賞を獲ることが目的ではないのだが、目標のひとつではある)。
ふと、2013年にロンドンへ行った際に聞いた「EWAA」主催者の言葉を思い出す。「あなたと受賞者との差は僅かだった。写真を撮り続けて欲しいし、来年もまたチャレンジしてほしい」。リップサービスかもしれないこの言葉を真に受けるとしたなら、僕はあと少しのジャンプアップで、次の領域にたどり着けることになる。そう好意的に解釈することができる。
では、ジャンプアップのために必要なことは何か。
仕事に忙殺され、ちっとも写真が撮れていない現状を、まずは打開するべきだろう。言うまでもなく。
創作活動にプラスとなる、さまざまな刺激を浴び続けることも必要だろう。各地で開催されている写真展などに、もっともっと足を運ぶべきだ。展示を行うために、どれだけのパワーとエネルギーが必要か、身をもって痛感しているはずではないか。
ネットや雑誌からの情報収集だって必要だ。自分の作品を見つめなおす時間だって必要だ。できることは何でもやっていこうじゃないか。
…さて。
ここへきて僕の思考は、ある意味で禁断の領域へと足を踏み入れる。
「機材は、足りているのか?」
以前もこのブログに書いたように(一年近く前のエントリだが、直近のエントリでもある)、僕は銀座の中古屋さんで安く買った50mm単焦点レンズをメインに使ってきた。気に入って使ってきたくせに、この子の能力について疑い始めた。
この子のデキの悪さが、ある意味自分の作品のアイデンティティを作ってきたことは言うまでもない。ざらついたボケ足が、荒廃した時代を如実に表現していたと辻褄を合わせることもできる。
しかしながら、それはあくまで、どこにも発信されない自分の中だけのロジックであって、僕の作品を観る人には何の関係もない。しかも写真というアートには「一目ぼれ」的な側面が強く、観る人の心を最初の一秒で鷲掴みしなければ、意図やメッセージを感じてもらうことすらなく素通りされてしまうのだ。
僕の機材の画力や表現力が「一目ぼれ」させるために十分な性能を持っているとは到底思えない。改善の余地が、大いに残されている。
そう思い至ってからの僕の行動はかつてないほど素早く、何年も前から「いつか買いたいものリスト」に入っていたCarl Zeiss Planar T* 1.4/50 ZF.2をさっさと手に入れてみせた。
レンズフードも含めすべてが金属製のため、カメラ本体と合わせてなかなか素敵な重量になったり、オートフォーカスに対応していないため、ピント合わせはマニュアルで行わなければならないなど、レンズとしての機能は一時代前のものと言えるかもしれない。
ただ、何より欲しかった画力・表現力に関しては、飛躍的に向上したと言える。何でもない風景を、味わいのあるものに変えてくれる能力が、このレンズには備わっている。思えば、今までの僕のレンズには「キレイなものをキレイに撮る」能力が絶望的に欠如していたのだろう。僕の作品を数段上(もしくは「人並み」のレベル)へと高めてくれる機材を手に入れることができたと思った。
ここまで長いこと能書きをたれてきたが、おそらく「一生もの」と言えるCarl Zeiss Planar T* 1.4/50 ZF.2を手に、これからも撮りつづけていくことになるだろう。そしてその過程で、少しでも多くの人に共感してもらえる作品に出逢うことができたなら、これ以上に嬉しいことはない。
一枚一枚、心を込めて撮っていこうと思う。これからも。