人は「居心地の良い情報」でできている。

ネット世界の情報は玉石混合、その真偽をしっかりと見分ける必要がある、と言われる。それはもちろんその通りで、フェイクな情報、果ては個人の憶測の領域を出ないのにまるで事実であるかのように断言される情報すらあるので、それらを見分けるだけの知識やリテラシーは必須であると思う。

 

さて、自分の行動を含めて近頃思うのは、さまざまな情報が入り乱れるネット世界において、どの情報を採り入れ、どの情報を排除するかの基準というものがあるとするならば、それはきっと「居心地」なのではないかということだ。

たとえば自分が好んで聴いているミュージシャンを賞賛する記事があったなら、それは積極的に読んでみたいと思うし、その記事へのアクセスも気軽だろう。反対にそのミュージシャンを徹底的に批判する記事があったなら、特に読みたいとも思わないし、その記事へアクセスする元気や勇気はなかなか湧かないものだ。

これは音楽など趣味趣向の話はもちろん、政治でも経済でも宗教の話においても、総じて同じことが言えるのではないかと思う。

 

「反対意見に耳を傾ける」ことは、結果として自分の知見を広めることにも繋がるので、本心としては積極的に採り入れるべきものなのかもしれないと思っている。しかしネット世界に散らばる大量の情報の中から、あえて触れたくない情報に触れるだけの気分的・時間的な余裕は、ほとんどの人に備わっていないだろう。

 

結局のところ、どんなに多くの情報があったとしても、人は「自分にとって居心地の良い情報」しか採り入れていない。考え方の傾向や思想・信条に合致するもの、自分の考えが正しいことを証明してくれる(らしい)もの、それだけを積極的に採り入れているのだろう。

 

情報によって人が変わることはない。人は情報によって自分の考えをより強固にする。そんな暴論すら脳裏をよぎる昨今であったりする。